魚系男子の気まぐれ日記

子供な僕が日々大人になっていく様子をお届けしたりします。

あけましておめでとうございます。

 

少し遅くなりましたが、
皆さんあけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします☺︎

 


今年はしっかりと目標を立てよう!と
いうことで、僕はそれを行事にしてみました。
月別行事と、通年行事(習慣ですね)。

 

月別行事は本当にただの予定なので、
ここでは控えさせて頂きます。


もう一つの通年行事は、ズバリ!!

 

『『モテること』』

 


なんて俗な目標なんだろう?と
思われる方もいるかと思います。
というかそんなこと目標にしてどうすんだ
って思う方が大半。

 

しかし、そこにはしっかりとした
理由があるので説明させてください。笑

 

 

まず、ここでいう“ モテる ”とは
同性異性問わず、人間的にモテることです。
つまり、人が僕と関わりたい、話したい、
あわよくば付き合いたい← と思う人を
増やそう!ということです。
ファンを作ること、と言い換えることもできます。


そのために必要なものを考えてみました。
以下に記します。
(定義は個人的な見解です)


・コミュニケーションスキル
→話は面白い方がいいし、本音を引き出したり、共感力も高い方がいい。何より相手に興味を持ち、何事も面白がる姿勢が大切だと思います。
なのでまずはこのスキルを身に付けたいです。


・教養
→上のコミュニケーションにも繋がりますが、知っているか知らないかでは、会話のきっかけやとっかかりに圧倒的に差が出ます。
また、相手が知りたいことを提供できたり、もしくは相手が言いたいことをより深く理解する手助けになる。そして何より、交友関係の幅が増える。こちらも読書や会話でどんどん吸収してアウトプットしていきます。


・ダイエットをし、細マッチョになる
→体重を減らし、筋力をつける。そしてそれを維持する。それには多方面からの徹底的な自己管理が必要不可欠です。常に自分を律するためにも、ここはしっかりと取り組んでいきたい。
また、適度に鍛えてスタイルの良い体だと、服が似合います。見た目の印象は大切ですし、僕はイケメンではないので、せめて努力でできることはカバーしておきたいです。
さらに付け加えるとするならば、ダイエットは一番身近な成功体験になり得る(経験談)ので、常に自信を持った状態を保てます。
これは何に対しても生かせることだと思うので、一応それも付け加えておきます。


・常に人を喜ばせる努力をする
→ これはサービス精神、おもてなしの心とも言い換えることができますが、僕が最も重要視していることは、見返りを求めないことです。
「これだけしたら、これだけ返してくれるだろう。」
そう言った本音はすぐに見抜かれます。そこに良い印象を持つ人は少ないです。
お金以外で与えられるものは、どんどん与えたい。それは楽しい時間だったり、知識や経験であったり。相手を喜ばしたい!と思ってすることであれば、なんでもいいと思います。

結局、モテることは全てここに集約される気がしますし、今まで述べてきたことはこのための手段だと言っていいと思います。

 

 

以上、僕の今年の目標です。

 

 

 

 

 

最後に一つだけ。

人に与えられたものの中で、均等であり本当の意味での平等を持つものは、ただ一つ。

時間です。

 

僕は僕の時間を有意義に濃密に、そして全力で生きようと今人生を模索中ですが、他に同じような生を歩みたいと思う人がこの世界にはたくさんいます。

その中で、僕と会って話したり、ご飯に行ったりする時間は、その貴重な時間の中から僕のために充てられています。

 

ともするならば、楽しいほうがいいに決まっているし、有意義で濃い時間を過ごせた方がお互いにとっていいに決まっているのです。

 

そうした姿勢やそこでの経験が、きっとより人を豊かにしてくれると僕は信じています。

 

 

僕は、コミュニケーションの可能性に賭けています。

そのために何ができるか、今考えています。

この一年も、そのために時間を使おうと考えています。

 

 

もし、少しでも良いと思ってくれた方がいれば、是非連絡をください。

一緒に面白いことを考えるのも、ただ御飯に行くのでもいいです。

僕が、必ず素敵な時間を提供すると約束します。

もしそうでなければ、なんだこいつは口だけか、と関係をきってもらって構いません。

 

あなたの貴重な時間を僕に充てるだけの価値が、僕にはまだなかったということなので。

 

応援よろしくお願い致します。

 

 

 

 

 

 

長くなりましたが、根底にトライアンドエラー、まずやってみて身を以て学ぶを置きながら、たくさんアクティブに行動していきます!


他に身につけておいた方がいいモテ要素があったら、是非教えてください。笑

僕流「本の読み方」

 

 

 

本は基本的にジャケ買いします。

それには理由があります。

 

 

 

中身を精査するのは、損をしたくないからです。

それは、まずやってみる!という姿勢とは真逆にあります。

 

 

また、中身を読んで

「あ、面白くないな…」と思うと

もうそこで買わなくなります。

 

 

すると、インプットされるものが

自ずと自分好みなものだけになります。

 

そうなると幅は広がりません。

 

 

 

 

最初に買ってしまえば

面白くなくとも勿体無いと思いたくないので

何かしら吸収しようとします。

 

 

 

それこそが知識の幅を広げるのだと

思います。

 

 

 

 

そうやって、面白い本と面白くない本を

見分けるコツをつかんでいけば

吸収率も知識量もどんどん上がっていきます。

 

 

 

 

いいことだらけです。

 

 

 

 

 

 

更新頻度。

 

 

 

 

大それたことを書こうとし過ぎて、

どうにも下がる更新頻度。

 

 

 

 

ということで、これからは短くスッキリと

マメに更新していきます。

 

 

 

 

 

まず第一弾。

僕が質素な(休みの日にどこか食べに出かけたり、友人と飲みに行ったり、本などを買うお金は全て別です)生活をする理由。

 

 

それは常に考える癖をつけたいから。

生活習慣を見直すには、まずは睡眠と食事。

 

 

睡眠は早寝早起きを心掛ければいい。

 

 

でも食事は

どこまでも楽ができるし

どこまでも贅沢できる。

 

 

でも、それだと太ってしまうし

お金のこと、生活のこと、栄養のことなどを

考えなくなってしまう。

カロリーもコントロールできないし

栄養素も偏る。

 

 

 

僕はプチ贅沢もしない。

毎日コンビニでコーヒーを買ったり、

お菓子やアイスを買ったりすること。

 

 

この毎日ってのがポイントで

 

贅沢はたまにドカンとするから

気持ちがいい。

 

 

 

あとは、常に質素でいることで

感覚を研ぎ澄ます目的もある。

 

 

 

人は意外と感じ取れる生き物。

味覚においても何においてもそう。

 

 

自分の些細な変化に、

他人の些細な変化に、

そして些細なことに対する感度を上げて

より感動しやすい心と体にしておく。

 

 

 

 

そんな意図があって

質素に暮らしております。

 

 

 

 

 

 

終わり

 

 

 

“ 主観 ” に生きる(前編)

 

 

 

 

風邪、引いてませんか…?

 

 

 

 

 

 

人肌恋しくなる季節の到来。

心も体も暖まりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

今回のテーマは 主観 です。

 

 

アドラー心理学を知っている方は聞いたことがあるかもしれませんが、人は誰しも自分の主観的な世界の住人です。

 

まずは、そのことについて書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さん、井戸は知っていますよね。

この、貞子が登場してくるやつです。

 ※写真はイメージです

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この井戸の中の水、実は年中18度くらいで一定だということはご存知ですか?

知らなかった人は、これを機に覚えてみては如何でしょうか。

 

 

…と、なぜ急に井戸の水の話をしたのかといいますと、これが主観の話と関係するからです。

 

 

 

井戸の中の水の温度は、常に一定。

しかし、夏になれば冷たく感じ、冬になれば温かく感じる。

なぜ同じ温度であるにも関わらず、季節によって感じ方が違うのか。

 

 

 

それは、外の温度が違うからです。

ええ、ええ。言われなくてもわかってると言いたいんでしょう。ごもっともです。

 

 

ここで言いたいことは、同じ温度の井戸の水でも、季節によって感じ方が変わること。

 

つまり

 

どんな世界にいるかで、同じものでも違った感じ方や見え方になる

 

ということです。

そして、その世界とは自分の主観的な世界のことです。

 

 

 

 

人は、常にこの自分の世界観を通して、物事を見ます。誰一人として、例外なくです。

 

僕はこれを、

“自分フィルターを通す”

と言っています。

 

 

 

自分フィルターは、自分の世界観であり、価値観であり、考え方です。

人は、目に見えるものから見えないものまで、このフィルターを通して受け取り、そして発信します。

 

 

 

 

 

例えば、ボランティアや募金活動。

 

これは、偽善でしょうか?

『いい人』だと思われたくて、あくまでも自分のために、自分の周りからの評価のためにやっていることなのでしょうか。

 

確かにそういう見方もできるでしょう。

しかし、それは客観的に見てどうとか、世間一般ではそう言われているとか、そういうことは全く関係なく、自分がそう考えているから、そう【映る】だけの話です。

 

 

 

本気で海を綺麗にしたくて、少しでも海水浴を楽しんでもらいたいという想いでごみ拾いのボランティアをする人もいますし、本気で被災地の人達のために何か行動したいという想いで募金活動をしている人もいます。

 

 

その人達の心境は、どういったものでしょうか?

 

きっと、同じ国に住む仲間、同じ地球に住むかけがえのない仲間・運命共同体として、ほっておくことができない、少しでも力になりたい!という気持ちがあるのではないでしょうか。

 

 

 

 

また、目の前の人を“敵”と思うか、“味方” “と思うか。

どちらの方が幸せでしょうか。

 

 

 

 

敵は、倒さなければなりません。

自分と競争し、対立し、お互いに蹴落とし、椅子取りゲームをするような関係性だからです。

 

そして、仮に勝ったとして、それは幸せでしょうか?

自己満足だけが残り、終わりのない承認欲求だけが満たされ、また一人、仲間が減るだけではないでしょうか。

 

 

 

ならば、協力し合い、お互いの良いところを引き出しあい、より良いもの、より素晴らしい時間のためにエネルギーを使った方が幸せではありませんか?

 

 

 

 

勿論、どちらが良い悪いという問題ではありません。

何かを善とし、その対極や逆を悪としてしまうことは非常に危険です。

自分の価値観や考え方を一方的に押し付けることは、絶対にしてはなりません。

 

 

 

 

 

しかし、目の前にあるのは

 

 

ただボランティアや募金活動が行われているという事実

 

だけであり、それをどう見るか・見えるかは、自分の問題なのです。

 

 

 

 

であるならば、受容的に、ポジティブに受け止め、自分も同じ地球の仲間、協力し合える、手を取り合える仲間だと思う自分でいる方が、僕は幸せだと思います。

 

 

 

 

 

そして、今目の前に広がっている世界それ自体には対した意味がないのであれば、言ってしまえば

 

自分の考え方を変えるだけで、世界の見え方はいくらでも変わる

 

ということです。

 

これを読んで、少しでも自分の心に素直になり、幸せに感じられる世界観を構築してもらえるきっかけになれば、幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次回は、ここからまた視点を変えて、主観について書いていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

終わり

 

 

 

 

 

 

まずはレベルの高い環境に身を置くことから始めよう

 

 

 

 

今、SEという仕事をしている。いわゆるシステムエンジニアである。

 

 

 

日々、パソコンをカタカタしているわけだが、約半年ほど働いて、というか、この仕事に携わって、気付いたことがあるのできいて欲しい。

 

よく言われることだが、やはり人は体験して初めて身につくのだな、と感じたことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

それは


“レベルの高い環境に身を置くこと”

 

である。

 

 

 

 

 

 

 

 


この仕事をしてると、良いソースコードを書きたくなるし、汎用性、利便性、効率性、再利用性、より良い体系的な構造や関係性を構築することが求められる。

 

 

 


しかし、良いソースコードなんていうのはなかなか見ることが出来ず、先輩や上司にわからないところを聞いたり、元のソースコードを参考にしてアイデアを考えるわけだが、別にそれが正解でもないわけで。

 

 

 


ただ、本当に素晴らしいソースコードに出会うと、感動する。こんな書き方もあるのかと、目から鱗が落ちる。
そこから、新たな発想や考え方に触れることができ、それがまた自分もスキルアップにもつながる。

 

 

 

 

 

 


レベルの高い人がたくさんいる環境だと、そういった瞬間に出会える数が圧倒的に多いし、そういう人たちが集まるとそこでまたさらに各人が良いところや面白いアイデアを吸収し合って、レベルをあげていき、他との差を広げていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


なので、下手くそでも初心者でもなんでも、まずはそういう環境に身を置き、何を言われても、どれだけ時間がかかっても、意地でも食らいつき、多くのことを盗み、まなび、追いつこうとすれば、知らぬ間に、勝手にレベルが上がっていて、それが普通になってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 もちろん、そういう環境に身を置くことはそう簡単なことではないし、そんな奴が入ってきたら甚だ迷惑だと思う人もいるだろう。

 

 

 

 

 

しかし、その甚だ迷惑だと思う考え方こそが、僕は間違いだと思うし、本気でやる気のあるやつに少しの間だけでも、学んで食らいついてみろよ、と余裕のある発言ができない人は結局のところそこ止まりな気がする。

 

すいません、これは完全なる僕の主観でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話を戻しまして。

しかし、やはり人は経験して、失敗して、そこから得たものからしか、本当の意味での学びは得られないのてはないか、ということも一理あると、この仕事をしていて思う。

 

 

 

 

 

 

 

これだけのメリットがあることがわかっていて、その環境に身を置かない理由がない。

 

 

非常に良い参考書、問題集が、周りにあり、それが当たり前になれば、自ずとそのレベルが普通になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、自分のレベルが高いところまでいってから、そういう人達のいる環境に身を置こうとしたところで、スキルはあっても考え方や価値観がレベルの高いところにないので、結局また一から学ぶ羽目になり、非常に効率が悪い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なので、やるべきことは、自分のスキルアップやレベルアップではなく、意地でもレベルの高い環境に身を置くことである。
そこに躍起になることが、まずは第一歩なのだと思う。
その方が、働くことの楽しさも、同時に学べる気がする。

 

 

 

 

 

 

 

終わり

“湯を沸かすほどの熱い愛”を観ました。

 

 

“湯を沸かすほどの熱い愛”を観ました。

宮沢りえさんの姿に、心打たれ、引き込まれました。

 

 

 

 

主役であり、唯一無二の“おかあちゃん”役の宮沢りえさんが演じるのは、末期ガンを宣告され、いきなり余命二ヶ月だと告げられるおかあちゃん。

 

 

 

これだけ聞くと、『余命一ヶ月の花嫁』などのドキュメンタリーが頭に思い浮かびますが、この映画はフィクションです。

 

僕は、そこに監督やこの映画を製作した、しようと心に決めた人たちの、湯を沸かすほどの熱い愛を感じました。

 

 

宮沢りえさんの、どこまでも真っ直ぐで、芯のある姿は、本当に胸打たれます。

娘役の、杉咲花ちゃんの演技にも、涙が止まりませんでした。

 

 

 

 

 

 

この映画で描かれているのは、母の愛だけではありません。

人間が、いや、人間なら、誰しもが心の奥に持っている(孕んでいるといってもいい)、人を愛したいという根源的な欲求。

 

しかし、その欲求の回りには、様々な感情、葛藤や苦悩、淋しさ、憎悪、痛み、妬み嫉み、人を信じられぬ心の傷が覆いかぶさっています。

 

ゆえに、人はなかなか人を愛することができないのだと、僕は思っています。

 

 

 

しかし、この映画に出てくる“おかあちゃん”は、それらを全て受け止め、それを丸ごと愛して、その愛の塊を人にぶつけます。

 

自分と向き合い、人と向き合い、この世界と向き合う。逃げずに、闘う。

そして、その愛をまた受け止めて、感じ取り、成長していく娘や夫、その周りの人々。

 

 

“おかあちゃん”の姿に、人は人を愛さずにはいられなくなる。

 

 

 

 

 

 

作中に、こんな言葉が出てきます。

 

『〜 この人のために、なんでもしてあげたくなるっていうか…。きっとそれって、その何倍もしてもらっていう気持ちがあるからなんだと思います。〜 』

 

 

おかあちゃんは、誰よりも人のことを考え、思いやり、自分の気持ちをぶつける人でした。いや、愛をぶつける人でした。そう、死ぬ間際の最後の最後まで。

 

 

 

正直、この作品のストーリー自体は、非常に残酷です。哀しいです。

しかし、そういった残酷や哀しさの中にこそ、いや、それらさえも受け入れて、自分の一部として存在する姿そのものが、僕は愛なんだと感じました。

 

 

愛とは、存在そのものです。

愛とは、どこまでも真っ直ぐです。

愛とは、人の全部です。

 

愛するとは、その愛を以って、人と接することです。そして、与えることです。ぶつけることです。心に向かい合うことです。

 

 

 

人の心に残り続けるもの。

一度受け取ってしまえば、人に与えずにはいられなくなるもの。

いつまでも心を温め続けるもの。

 

 

 

湯を沸かすほどの熱い愛そのものは、触ると火傷してしまう。

しかし、その熱で沸かした、人というお湯、具現化された愛の塊は、どこまでも人を暖かくし、心地良い。

 

 

そんな風に、この映画のおかあちゃんのように、宮沢りえさんのようになりたいと、心から思いました。

 

 

 

 

 

 

 

終わり

 

四半世紀生きてみた。

 

 

 

 

 


“25年生きた”

 

 

という感覚が未だにわかりません。

アドラーの言うように
きっと刹那的な瞬間の繋がりなので
線として長さを測ることができないのが
人生なのかなと思います。

 

でも、この25年の中での
刹那的な瞬間自体は
たくさん僕の中に詰まってます。


僕はアドラーと出逢ってから
『過去が今を形成している』
という原因論を否定していて、
目的論に立つようになりました。


今から、少しだけその話をします。

興味のある人は下へ
興味のない人は戻るへ
お進みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それ以上でもそれ以下でもなく、
ただ事実として“ 言葉 ”を捉えることは
非常に難しいです。

僕は、嫌な方へ考えてしまう癖が
ずっとありました。
(あくまでも過去形で話します。)

 


『いや、その日はちょっと予定が…』

(予定の日直前)
『ちょっと無理になってしまって…』

 


そんなことが、よくあります。
この言葉を、ただそのままの意味で
受け取れたら、どれほど幸せか。
そんな風に思っていました。


しかし、アドラーと出逢ってから
この考え方は見事に僕を奈落の底へと
突き落としてくれました。

 

「僕とご飯行きたくないんやろな…」

「話しても楽しくないしな…」

「まあ別にいいけど、僕変わってるし」

 

そんな風に思ってきました。

この言い訳のような言葉。
何故そう思うのか?

答えは明白でした。
僕が普段からそう思って人と接し
事実そんな態度を取っていたという
まぎれもない証でした。

 

人は、誰かの言葉を受け取るとき。
自分の中で咀嚼するとき。

必ず “ 自分 ” というフィルタを通します。

自分の考え方、価値観、思考回路などの
ありとあらゆるフィルタを通して
やっと言葉を感情として受け取ります。

でないとその言葉の意味を
理解できないからです。

 

そう考えると、

「こいつは僕と会いたくないから、
話したくないから、何かと理由をつけて
断ろうとしてるんだ。」

と感じてしまうのは、
そういう自分フィルタを通して
いるからなのかと思いました。


《自分だったらこう思うだろう》


よく、他人は鏡なんて言いますが、
相手の言葉の受け取り方は
まさしく言葉の通りでした。

 

 

 


ここで、目的論の話へ戻ります。
僕は、自分がこういう性格になったのは
少なからず過去に起因しているものだと
思っていました。

不器用で、空気が読めなくて、
変わり者で、人とうまく話せなくて。

そういう自分が嫌いでしたし、
変えられないものだと思っていました。

しかし、アドラーと出逢ってから
それは間違いだったと気付きました。

上で挙げた色々な欠点は
自分がそう思うことで改善する努力を
怠るためだったと気付きました。

性格だと言えば直さなくていいし、
楽ができると思っている証拠でした。

 

 

 

 

しかし、ともするならば。

逆に言えば、気持ちひとつで
いくらでも自分を変えられる
ということではないか?

そう思うと、絶望が希望へと
一転してしまいました。

この感覚が、僕の中で衝撃でした。

 

 

 


ここまでくるのに、25年かかりました。
でも、ここまでこれました。

人は、何気ない出来事を積み重ね
なんでもないような日々の中で
ほんの少しであっても
しかし確実に進歩しています。


今は立ち止まっていたとしても。
どうして生きているのかわからないとしても。

気持ちを前に向ければ。
そのきっかけさえあれば。

 

 

そんな気持ちを生み出したいと思い、
僕は今コツコツと形にできるように
考えています。

少しずつ、少しずつ。
僕は前へと歩を進めます。

 

 

 

 

終わり