魚系男子の気まぐれ日記

子供な僕が日々大人になっていく様子をお届けしたりします。

2017/12/26

 

 

僕は、バランスを重視する。

 

 

洋服のサイズ感もそうだし、

自分の時間とそうじゃない時間もそう。

 

 

 

生き方もそう。

 

 

少しだけ、楽しい方に傾ける。

何事においても。

それが楽しく生きるコツだと思う。

 

 

 

よくね、昔は

働くことに大きな意義を

見出したり

大義名分や壮大な目標を

掲げてたりしてたよ。

 

 

 

 

別にそれが悪いと言ってるわけじゃない。

 

 

 

楽しい方に少しだけ傾いていれば

それでいいのだと思う。

 

ようになった、

というのが正しいのかもしれない。

 

 

 

 

 

迷ったら、困難な道を選べ。

茨の道を進め。

辛い経験をし、苦汁を舐め、

臥薪嘗胆、藁をも掴む思いで

やらなければ成功できない。

 

 

間違いではない。

 

 

 

 

 

では成功ってなんだろうか。

 

僕は結構長い間真剣に考えた。

 

その中で、色んな業界で先陣切って

世のため人のためにバリバリ働き

社会に貢献している人たちや

 

 

芸能界、音楽業界など

エンタメの世界で人気を得て

成功している人たちのことを

見つめてみた。

 

 

 

 

やってることは大きくても、

やはり原点は

“ 楽しい方に傾く ”

これに尽きるな、と思った。

 

 

 

より人のためになるものを創ったり

より社会に貢献したり

より人を幸せにすることができたら

大きな成功を手に入れたことに

なるだろうし

 

 

たくさんの人に感動を与えられたら

それほど嬉しいことはない。

 

 

 

 

でも、それは結果論だと僕は思う。

 

 

 

皆、少しだけ楽しいに傾いて

生きているだけなんだと思う。

 

 

 

それが何かは、人によって違う。

 

 

 

 

よく、好きなことを仕事にする

時代が来ると言われる。

 

間違いではない。

 

 

でも僕は、

好きなことを仕事にする

というのは

正確な言い方じゃないと思う。

 

 

 

楽しいことを仕事にする

これが適切だと思う。

 

 

 

 

だってそれが

一番、自分の幸せに直結する。

 

 

 

何をしてるときが楽しいか。

 

 

 

それは別に具体的な趣味のようなもの

でなくてもいい。

 

 

おしゃべり、考えること、

抽象的なことでもいい。

 

 

 

とにかく、楽しいこと。

それがしたくてしたくて

仕方がないこと。

 

 

 

その直感に従ってみても

僕はいいと思う。

 

 

 

働くことの意義とか

大きな成功とか

 

 

まずはそんなもの後回しにして

楽しい方を選択しようよ。

 

 

 

 

それは内側から無尽蔵に

パワーが湧いてくることだから

 

 

それを仕事にできたら

どんどん自分が満たされていって

幸せになってくる。

自信が湧いてくる。

 

 

 

そしたら

今度はもうそのエネルギーを

自分の中だけに留めておくことが

できなくなってきて

 

 

人にも与えたくなる。

人を幸せにしたくなる。

 

 

 

自分も楽しくて幸せで

人も幸せにできる。

 

 

人の笑顔や元気な姿を見たら

またそれがエネルギーになって

もっともっと幸せになる。

 

 

もっともっと仕事をしたくなる。

 

 

 

 

それが僕が見出した

 

『働く』ということの答えだ。

 

 

 

 

 

 

 

2017/12/21

 

人というのは不思議なもので

自分の都合のいいように

物事を解釈する。

 

 

それは自己防衛でもあるし

自我が崩壊しないための

必要な解釈だとも思う。

 

 

ただ、それが必ずしも

他人にとってもいいものであるかは

わからない。

人によって感じ方も捉え方も

違うのだから

良いと思う人も悪いと思う人も

両方いる。それが当たり前。

 

 

できれば、他人にも

優しいものであれば

いいのだけれど

 

 

そんなところまで

いつも気が回るほど

強い生き物でないのも

人間である証拠。

 

 

人を殺してはいけない。

傷つけてはいけない。

バカにしてはいけない。

偉ぶってはいけない。

人は皆平等であるべきだ。

差別なんて以ての外だ。

 

 

素晴らしい。

素晴らしいけど

そんな「〜であるべき」思考や

「〜でなければいけない」思考に

囚われてはいないだろうか。

 

 

人であるなら誰しも間違う。

時には取り返しのつかないこともする。

 

それを容認しているわけではない。

 

 

問題なのは

自分の気持ちを正直に認められず

他人の価値観に縛られて

いつのまにか疲弊してしまうことだ。

 

 

それによってふと衝動的な気持ちに

駆られてしまうことだ。

行動に移してしまうことだ。

 

 

そこまで来たら

もう誰にも止められない。

自分ですら無理なのだから。

 

 

でもだからといって

その人が全て悪いのか?

 

 

間違いを犯した人は皆

徹底的に糾弾され

誹謗中傷的な言葉を浴びせられ

心が傷つかなくてはいけないのか。

 

 

そんなことは絶対にない。

 

 

 

その人の心は既にボロボロ。

だから間違いを犯してしまったのだ。

誰にも起こりうる可能性のあるもの。

 

 

 

もちろん、だからといって

犯罪者を野放しにしておいたり

罪を受けなくていいと

言っているわけではない。

 

 

間違いは償って然るべきだ。

 

だが

その人を攻めていい権利なんてものは

誰も持ち合わせていないし

社会的に復帰不可能な状況に

追い込んでいいはずはないのだ。

 

 

それはいずれ自分にも返ってくる。

そのことを深く認識するべきだ。

 

 

 

 

 

何がその人をそこまで追い込んだのか。

なぜそこまで傷ついてしまったのか。

 

 

理由はわからないのかもしれないし

元々の資質や育った環境も

関係しているとも思う。

 

 

一概に原因論に落とし込むことは

できない。

 

 

では何が目的だったのか。

それによって得たかった感情は

何だったのか。

 

 

 

救われたかったのか。

怒って欲しかったのか。

 

 

 

どんな感情を求めていたのか。

どんな精神状態だったのか。

何から逃げたかったのか。

何を手に入れたかったのか。

 

 

 

その人の心の奥深くを蝕む

ものは一体何なのだろうか。

 

 

 

 

それをその人自身が認めて

その気持ちと向き合って

いかないといけない。

そうしないと根本的な解決には

至らない。

 

 

それはかなり苦しいものだし

時には向き合いたくなくなったり

どうしても怒りや不安の感情が

溢れてきて

攻撃的になってしまうかもしれない。

 

 

 

それでも。

向き合っていくしかないのだ。

認めて前を向いていく努力を

しないとダメなのだ。

 

 

でないと

いつかそれに自分自身が

のまれてしまう日が来てしまう。

 

 

 

それが不幸かどうかはわからないが

幸せなものであることはない。

 

 

 

良い人生にするために

幸せになるために

好きな人を幸せにするために

必要なことなんだ。

 

 

 

 

 

死生観

 

私たちは、死ぬために生きている。

死に向かって生きている。

 

人ならば、いずれ死ぬもの。

かけがえのない命であると同時に、

必ず消失してしまうもの。

 

それが命。

 

 

森山直太朗さんの

『生きてることが辛いなら』

という歌がある。

 

 

“ 生きてることが辛いなら

くたばる喜びとっておけ ”

 

 

本当に良い歌詞。

 

 

明石家さんまさんも

“ 生きてるだけで丸儲け ”

という言葉を残している。

 

 

どうしようもないときもある。

苦しくて耐えられなくて

いっそ投げ出してしまおうか。

楽になってしまおうか。

 

 

いけない。

衝動的になっては断じてならない。

 

 

 

過去は清算できない。

後悔はリセットできない。

罪の意識は生きている限り付いて回るし

今日までの日々をなかったことには

決してできない。

全て背負って生きていくしかない。

 

 

生きるとは、

そういうことだと僕は思う。

 

 

 

だからこそ

毎日はかけがえのないもので

二度と取り戻せない日々であり

 

色んなものを抱えながら

背負いながら生きていく中で

楽しさや生き甲斐を見つけて

いくことで毎日が楽しくなる。

 

 

大義名分を掲げなくてもいい。

大層なことでなくてもいい。

 

 

ただ自分の幸せと

自分の周りの人の幸せ。

可能なら世界にいる他人の幸せだけを

考えて生きればいい。

 

 

人が幸せになることで

自分も幸せになる道を信じて

歩いていけばいい。

 

 

職業に貴賎はない。

立場が違っても、お金持ちでも

どこかの社長でも、一サラリーマンでも

人としては皆対等である。

 

 

平等かどうかはわからない。

けど

少なくとも人を傷つけていいはずがないし

職業や立場や人種が違っても

偉ぶったり馬鹿にしていいはずがない。

 

人は皆、それぞれ役割があって

自分の力を生かせる場所で

自分が自分の力を信じて

生かしたいと思える場所で

助け合いながら

支え合いながら

お互い様の精神で生きていけばいい。

 

得手不得手を認めればいい。

得意分野で活躍すればいい。

 

 

自分がなりたいように

自分が幸せで楽しく在れるように

生きていけばいい。

 

 

その自由がなくして何が自由だ。

 

 

失敗して泣いて立ち直って

そうやって生きていくことの

どこが恥ずかしい。

どこが悪い。

 

その自由がないなら自由とは言えない。

 

 

 

逃げていい。

休めばいい。

やり直せばいい。

 

 

生きてさえいれば

生きることから逃げなければ

どうにでもなる。

 

 

助けてくれる人はいくらでもいる。

助けを求めればいい。

泣いて叫べばいい。

 

 

手を差し伸べてくれる人は必ずいる。

 

 

 

そこからまた始めればいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お洒落とは

 

この世には、主観的なお洒落と

客観的なお洒落がある。

 

前者はどう在りたいか。

後者はどう見られたいか。

 

 

僕は前者だ。

主観的、というよりかは

自己満足と言った方がいい。

自己表現なのである。

 

 

ただ装いを飾るだけでない。

好きな国や文化、時代、音楽、スタイル。

シルエットや服飾の素材。

ブランドのバックグラウンド。

デザイナーが込めたコンセプト。

服が完成するまでの過程。

 

 

それらを“着る”のである。

見てくれを装うのではない。

自分を発信していくのである。

 

 

僕の場合は、抜けたクラシックのような

スタイルを大変好む。

 

 

伝統的でクラシックな装いの中に

好奇心の強さをイメージして

少し外した遊び心を入れる。

 

 

鈍臭いところもあるため

カッコつけすぎないように

ルーズで野暮ったい雰囲気も

取り入れたりする。

 

 

それが自分なのだ。

そう着ることで

自分が自分であれるし

自分らしく生きることができる。

 

 

服とは、お洒落とは

そういうものであるからこそ

 

数多のブランドが立ち上がり

その数だけデザイナーや

パタンナーの手から

「こう“在って”ほしい」という

想いが込められた

唯一無二の世界観が生まれる。

 

そこに時間と労力を注ぎ

人生をかけて服を創る。

 

ものづくりの真髄がある。

 

 

だから、僕は高いお金を出してでも

本当に良い服を着たい。

2017年12月7日

僕が真理だと思っていることは2つあります。

 

時間だけが人間にとってただ一つ平等なこと。

とにかく行動に起こして、世の中に発表した奴が勝ちだということ。

 

この二つです。

 

 

僕は、人生や人間に勝ち負けはないと考えていますが、

ここではあえて「勝ち」という言葉を使っています。

 

それは、その方が人に響くと思ったから。

 

 

伝え方が9割、という本があるように、

本当に使う言葉によって伝えたいメッセージは180°変わります。

 

死にたくない。よりも、生きたい。

好きじゃない。よりも、嫌い。

 

これらの言葉は、個人的に全く意味の異なる言葉だと思いますが、

聞く人によっては似たような意味にとられることもあります。

 

言葉の持つ力、ニュアンスというのはこんな些細なことで

変わってしまうのだと、恐ろしくも感じます。

 

自分が何気なく発信している言葉が、聞く人によれば

最高と最悪の言葉になりうる。

 

ワクワクしませんか。ぞくぞくしませんか。

僕はします。同時に怖いです。

 

 

コインの裏と表、正義と悪、好きと嫌い。

物事は常に表裏一体で、両方の側面を孕んでいる。

それこそが真理である。

そんな風に言う人が結構いるように僕は思います。

 

一方が好きということは、その反対側は嫌いということでしょう?

自分が正義だというならば、正反対の思想を持つ人は悪でしょう?

 

 

それは違う。断じて違う。

物事は、そんな相対的な評価で決まると僕は思いません。

 

 

僕は、何事も常に絶対的なもので、唯一無二だと考えています。

 

好きという気持ちは、ただそれのみが存在していて、

他に比べることのできない、かけがいのない感情。

 

あの人が好きだからって、あの人と仲の悪い人が嫌いってことには

決してならないでしょう。その人が好きだっていい。

どうしてそう、すぐにどちらかに寄りたくなるのだろう。

 

不思議に思うことがある。生きていればそういう瞬間が多々ある。

 

きっとそれは、人間が社会性のある生き物で、

そうすることで自分の身を守ってきたからだと。

そう思う。それでしか説明できない気がする。

 

 

言葉というものは、つまり記号で、

ネーミングであり、ラベリングであり、カテゴリであり、

名前のないものに名前をつけることである。

 

 

今、自分の目の前にあるものが何かわからなければ、

それを言葉として定義できないならば、

社会的には存在しないことになる。

 

今、自分の中にある感情が、何かわかっていたとしても、

それを言葉にできなければ人に伝えることはできないし、

自分で認識することもできない。

 

でも、確かに在るという感覚だけは残っている。

手が届きそうで届かない、歯がゆくてむず痒い。

そんな気持ちになる。

 

 

その気持ちは愛おしい。手に取って余りあるほど愛すべきもの。

 

 

名前をつけることは恐ろしい。

それだけで力を持つ。人を動かすエネルギーが宿る。

言葉の持つ重みというのは、

想像できないほどである。

 

その重さは、足にまとわりつき、手枷をはめ、

口を塞ぎ、背中にのしかかる。

 

その責任感、重圧というものから自由になるには。

 

 

書いていてふと疑問に思った。

答えはまだ持ち合わせていない。

そのうち書きます。

 

 

今日はこの辺で。

毎日こうやって勢いで書いていって、

残った文章を後から読み返して。

 

おかしければ訂正ないし削除していきます。

 

とにかく書いて出すこと。毎日続けること。

これを目標に。

お金がない、ということ。

 

 

 

お金がないことは、

僕はいいことだと思います。

 

 

じゃあ飢え死にしてもいいのか、と

言われそうですが、もちろん必要最低限の

生活はできた方がいいです。

そういう話ではありません。

 

 

 

 


お金がないと、本当に大切なものしか

買わなくなります。

本当に大切なことにしか

使わなくなります。

本質を見極める力が養えます。

 

 

 

 


お金がないと、楽をしなくなります。

でも少しばかり余裕を生み出せるように

工夫をするようになります。

その時間と労力が

生きる知恵に変わります。

 

 

 

 

 


お金がないと、

本当の財産は自分と他人と時間だと

いうことに気付きます。

人と過ごす何気ないひと時が

幸せなことなんだと気付きます。

笑顔でいることが

何よりの元気の秘訣であり、

人を笑顔にする秘訣だということに

気付きます。

 

 

 

 


僕が言いたいことは、そういうことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「美女と野獣」を観ました。

 

 

 

 

この物語の本質は
『運命の人などいない』ということ、
そして、愛することの素晴らしさと
難しさだと僕は思う。

 

「人を外見で判断せず、中身を見よ」


というのがこの作品のテーマの一つだと
思うが、その他にも重要なテーマが
この作品にはあると感じた。

 

 

ベルと王子(野獣)は、
生まれた環境や育ちは違えど
お互いに幼き頃に母を亡くしている
という共通項が前提としてある。

そして、この二人の相違点としては
王子は威厳があり規律を重んじる
父親に育てられ、母親から愛される
という経験が浅かったこと、
一方でベルは慈悲を重んじる父親
無償の愛を注がれ育てられたということ。

母の愛は無償であり
父の愛は条件付きの愛である
というのはエーリッヒ・フロムの
「愛する技術」という本に書いてあるが
ここでは趣旨からズレるので割愛する。
非常に読む価値のある本なので
こちらも是非読んでもらいたい。

 

 

 


そして、もう一つ重要な点として
この二人は偶然にも恋に落ちたのではなく
お互いに愛を育んだ(もう少し厳密に
言うなら、ベルの愛に触れ王子が
愛することを学んだ)ことである。

 

 

 

 

一目惚れでもなく
何か共通点があったわけでもないが
お互いが相手のことを知ろうとし
理解しようとしたこと、
そして相手を思いやったことで
次第に惹かれあっていったことが
この物語の中での重要なテーマの一つである。

性別を越え種の違いを越え
心と心で結びついたこと、
必要だから愛するという順序でなく
愛しているから必要であるという
順序であったこと。
この二点が現代の恋愛において
欠けている点であり、
真にパートナーとして愛するということが
現代の恋愛にはあまり見られない点である。

将来を案じ、自分のレベルに合わせ妥協し
表面の性的な魅力や経済的な面でのみ
相手を判断する恋愛が現代は非常に多い。

お互いに自立しておらず
二人で一つ、相手なしでは考えられないなど
共依存の関係の上に成り立つ恋愛は
確実に幸せになれない関係といえる。
なぜなら、自分の空白を埋めるために
相手を利用しているのであり
自己の抑圧した感情を相手に投影することで
成立している恋愛だからである。
この段階から脱却しない限り、
すなわち幼稚な恋愛から脱却しない限り
良好なパートナー関係は築けない。
いずれどちらかの精神のバランスが崩れ
お互いに崩壊していくことが予想される。

 

 

 

そうならないためにも、
この物語からは学ぶ点が非常に多く
フィクションや夢物語としてでなく
愛するということのバイブルとして
機能すると思われる。
(というより、そういう側面が強いので
今もなお至極のラブストーリーとして
長く語り継がれている気がする。)

 

※話の内容自体は知れ渡っているので
特にネタバレを意識しなくていいのが
書く上で嬉しい限り。笑