“湯を沸かすほどの熱い愛”を観ました。
“湯を沸かすほどの熱い愛”を観ました。
宮沢りえさんの姿に、心打たれ、引き込まれました。
主役であり、唯一無二の“おかあちゃん”役の宮沢りえさんが演じるのは、末期ガンを宣告され、いきなり余命二ヶ月だと告げられるおかあちゃん。
これだけ聞くと、『余命一ヶ月の花嫁』などのドキュメンタリーが頭に思い浮かびますが、この映画はフィクションです。
僕は、そこに監督やこの映画を製作した、しようと心に決めた人たちの、湯を沸かすほどの熱い愛を感じました。
宮沢りえさんの、どこまでも真っ直ぐで、芯のある姿は、本当に胸打たれます。
娘役の、杉咲花ちゃんの演技にも、涙が止まりませんでした。
この映画で描かれているのは、母の愛だけではありません。
人間が、いや、人間なら、誰しもが心の奥に持っている(孕んでいるといってもいい)、人を愛したいという根源的な欲求。
しかし、その欲求の回りには、様々な感情、葛藤や苦悩、淋しさ、憎悪、痛み、妬み嫉み、人を信じられぬ心の傷が覆いかぶさっています。
ゆえに、人はなかなか人を愛することができないのだと、僕は思っています。
しかし、この映画に出てくる“おかあちゃん”は、それらを全て受け止め、それを丸ごと愛して、その愛の塊を人にぶつけます。
自分と向き合い、人と向き合い、この世界と向き合う。逃げずに、闘う。
そして、その愛をまた受け止めて、感じ取り、成長していく娘や夫、その周りの人々。
“おかあちゃん”の姿に、人は人を愛さずにはいられなくなる。
作中に、こんな言葉が出てきます。
『〜 この人のために、なんでもしてあげたくなるっていうか…。きっとそれって、その何倍もしてもらっていう気持ちがあるからなんだと思います。〜 』
おかあちゃんは、誰よりも人のことを考え、思いやり、自分の気持ちをぶつける人でした。いや、愛をぶつける人でした。そう、死ぬ間際の最後の最後まで。
正直、この作品のストーリー自体は、非常に残酷です。哀しいです。
しかし、そういった残酷や哀しさの中にこそ、いや、それらさえも受け入れて、自分の一部として存在する姿そのものが、僕は愛なんだと感じました。
愛とは、存在そのものです。
愛とは、どこまでも真っ直ぐです。
愛とは、人の全部です。
愛するとは、その愛を以って、人と接することです。そして、与えることです。ぶつけることです。心に向かい合うことです。
人の心に残り続けるもの。
一度受け取ってしまえば、人に与えずにはいられなくなるもの。
いつまでも心を温め続けるもの。
湯を沸かすほどの熱い愛そのものは、触ると火傷してしまう。
しかし、その熱で沸かした、人というお湯、具現化された愛の塊は、どこまでも人を暖かくし、心地良い。
そんな風に、この映画のおかあちゃんのように、宮沢りえさんのようになりたいと、心から思いました。
終わり